MATSUSHITA PEARL FARMS
1996年の夏、宇和海で真珠を作るアコヤガイが謎の大量瀕死する事態が起こりました。
真珠を抱いた貝だけではなくそれを抱く前の母貝までもが次々と死んでいき、宇和海地区の真珠養殖の業者は甚大な被害を受け、大きな岐路に立たされ、次々と倒産廃業していきました。
後になって分かったことですが、原因は病原性のウイルスでした。
四国の宇和海は、真珠養殖産業の存亡という深刻な危機に立たされたのです。そこで「病気に強い貝を作ろう」と思い立ち、アコヤガイの品種改良をはじめました。
1997年の春、普通の貝に混ざって鮮やかな紅色をしたアコヤガイが育っているのに気が付きました。これが後の「ベニアコヤ®︎」の誕生の瞬間でした。
1999年の冬、ようやくベニアコヤで初めての真珠が採れました。
ベニアコヤは成長するにつれて、貝殻の内側の真珠層が非常に強い赤みを帯びた虹色(干渉色)を呈し、とてもきれいな貝になりました。さらに病気にも強く、史上最強のアコヤガイとまで言われました。
現在はさらに改良を進め、ベニアコヤの系統を受け継ぐ交雑種を主力に採苗しています。
現在も全国の真珠生産地で発生している、謎のアコヤガイ稚貝の大量瀕死にも効果的で、他の稚貝より瀕死がかなり少ないとの報告も上がってきています。
MATSUSHITA PEARL FARMS
御木本幸吉が目指した最高級真珠
1921年(大正10年)の未だ真珠が養殖され始めて間もない黎明期、ロンドンで「日本から持ち込まれた養殖真珠が天然真珠と見分けのつかない偽物、つまり詐欺である」と断定した騒ぎから、ヨーロッパ全土に日本の養殖真珠の排斥運動が広がりました。ナチュラリティを大切にする国柄のフランスは特に強く抵抗し、3年に渡るパリ裁判の末に1924年(大正13年)「天然と養殖には全く違いがなかった」という判決を受けて御木本幸吉氏等は全面勝訴し、養殖真珠はようやく世界に認められる宝石となり今の地位を確立したのがこの真珠業界では有名な「パリ(真珠)裁判」です。
またその後御木本幸吉氏は、自社の加工の担当者に「真珠は一切加工するな」と言っていたそうです。「加工しないと1割も売れませんよ!」と部下には拒否されましたが、「過度の加工をするとナチュラリティを失い真珠の価値観を喪失させる」というその大切な真意を、彼はパリ裁判を通じて骨身に沁みて分かっていたものと思われます。
真珠の調色加工が始まったのは昭和50年代になってからであり、残念ながら現在ほとんどのアコヤ真珠は加工工程の最後に赤い染料で染められています。
昭和29年96歳の長寿で亡くなられた御木本幸吉翁がもしもこの頃まで生きておられたら、彼はこの調色という加工作業だけは絶対に認めなかっただろうと私は確信いたします。
染めている染めていないという単純な問題ではなく、何かの手を加えるにしても自然に無い染料を加えるのは宝石としての真珠を貶めることではないでしょうか。
真珠には様々な色があり形がありますので、それらを大切に生かしデザインして楽しんで頂ければと、私は心より願っております。